1■日曜日のカムアウト
〈1〉
参ったなあ、と俺は受話器を持っていない方の手で頭を掻いた。
麻柚は庭で、短いスカートをひらめかせながら子犬のチョンと遊んでいる。俺の心とは裏腹に、晴れ渡る爽やかな五月の空。
『マヒロ、聞いてる? そういうわけで、しばらくおばあちゃんの家に泊まることになったから。家のこと、よろしくね。マヒロ、聞いてる?』
「聞いてるよ」
『ほんとに聞いてる? 突然だったからお金とか準備しなかったけど、大丈夫?』
「え、それは困」
『もしものときはバイトか何かで食いつないでちょうだい』
「ちょ、母さん」
『おばあちゃんは今夜がヤマだっていうから、何か祈っててちょうだい』
「母さん、聞けよ」
『もしもし? 聞いてる?』
「あんたが聞けよ」
『じゃあ、また電話するわね』
「おい」
プツ。
「おい!」
ツー。ツー。
「……」
溜め息と共に受話器を置く。
「どしたの? お兄ちゃん」
「うわ」
ついさっきまで庭にいたはずの麻柚が俺の顔を下から覗いていた。
「びっくりさせんな。ばあちゃんがちょっとアレだから、母さんたち、しばらく帰ってこないってよ」
「ええっ」
「心配すんな。ばあちゃんは今まで五回も死にかけてるけど、毎回ケロッとよくなるんだから。きっと今回も」
「お父さんもお母さんも帰ってこないの?」
「あ、そっちか。今晩はカップラーメンで我慢しろ。明日は買い物して、何か作るから」
「お兄ちゃんと二人っきりかあ……」
「そっちか。そうだよな。仕方ねえだろ、俺だっていきなりこんなことになって困って」
「夜更かししても怒られないね~」
「……そっちか」
洗濯とか掃除とか生活必需品の調達とか食事の支度とか電話勧誘の応対とか、母親が毎日やっている仕事って本当に面倒だ。頭が下がる。俺は主夫にはなりたくない。
まあ、ただの高校生で、部活にも入らずのんびり生きている俺だ。今日みたいな日曜となるとヒマで仕方ないので、たまには家事もいいか。しかし普段何も手伝っていないのでやり方も何も全然わからない。
母さんの言う「しばらく」がどの程度なのか知らないが、金がないのは困る。冷蔵庫にはいつのものかわからない野菜が少しあるだけだった。冷凍食品もない。多分、あるもの全部ばあちゃんのところに持っていったんだと思う。
母さんは何かあると「『気の利いたもの』っていうのが何かわからないから」と言って、野菜だの米だのソースだのとろけるチーズだの乾燥ワカメだの爪楊枝だの、家にあるものを手当たりしだい持っていくのだ。父さんも何もわからない人だから、そういうものなのだと思って何も言わない。しかし冷凍食品を九州に持っていったら絶対に途中で溶けると思うんだが。
なんでも持ってきゃいいわけじゃないんだよ。貰う側も残された家族も困るってことを考えないのか。
考えないんだろうな。
「お兄ちゃん、これ何ーぃ」
「あ?」
洗濯を干し終えたところで、俺の部屋から麻柚の声がした。行ってみると、妹は俺が友人から借りたままの恋愛シミュレーションゲームのソフトを手に持っていた。
「お、お前、それはお前が見てはいけないものだよお前」
穏やかに言いながらソフトを奪う。
「どして?」
「どしてもだ」
ぶう、と麻柚はほっぺたを膨らませる。
「お兄ちゃんヒマですね」
「俺はいつでもヒマだよ悪かったな」
「お兄ちゃん、あたしたち今ヒマですね、って意味」
「そっちか」
「遊びたーい。何かしたーい」
「お前な、中学三年にもなって一人遊びもできないのか」
「そんなエロい言葉を中学生の妹に向かって言っちゃいますか」
「何が、なんだって?」
「そんなエロい言葉を中学生の妹に向かって言っちゃいますか」
「もう一度訊くが、何が、なんだって?」
「あれ? 一般的には問題ない単語なのかな」
「何がだ」
「ねえねえ、これやっていい?」
麻柚は、俺が奪ったはずのゲームソフトを自分の顔の横に両手で持って見せた。
「あ、あれっ?」
「ハードはドコかね」
思わず両手のひらを開き、いつの間にかソフトを奪い返されていたことを確認した俺のことなど全く無関心な妹は、ベッドの下に手を突っ込んだ。うわ、確かにゲーム機はそこに押し込んであるが、純真な妹にそんなゲームをやらせるわけにはいかない。そうでなくてもベッドの下ってのは男のロマンだとなぜわからないんだ。俺は麻柚の手首を掴んだ。
「おい、やめろ。そんなにヒマならトランプでもやるか」
「あんなつまらないカードゲームを楽しめるのは鈍感な人間だけだよ」
どういう意味だそれは。トランプ考案者に失礼だぞ。
「だったらお前、自分の部屋で漫画でも読んでろ」
「……じゃあ、お兄ちゃんの漫画借りる」
「萌え萌えのしかないぞ」
「それでいい。参考にする」
「なんのだ」
「あたしもモエモエになって、お兄ちゃんの、お嫁さんになるの☆」
「お前は中学三年にもなってそんなことを恥ずかしげもなく言えるのか」
「冗談に決まってんじゃん」
「冗談か……」
「落ち込まないでお兄ちゃん。お兄ちゃんにはルカさんっていう人がいるんでしょ」
「あいつは別に彼女とかじゃないし」
「またまたー」
「違うんだよ」
「そうなの? まあ、大したことない女だったら、あたしが撃ち殺してあげるけどね」
「そういう言葉を遣うのはやめなさい」
麻柚は、俺の本棚から漫画を二冊ほど抜き取ると部屋を出ていった。すぐに戻ってきて、持ったままだった恋愛シミュレーションゲームのソフトを俺に渡す。再び去る。
俺はゲームソフトを眺めた。正直このゲームはつまらなくて開始早々飽きて、そのまま忘れていただけだったので、明日返そうと思う。俺は学校の鞄にそれを入れた。