4■水曜日のラブシック
「おにい……あれ、起きてる」
俺は一睡もできず、おかげで(と言うべきか)寝坊することもなかった。麻柚が昨日までより早い時間に起こしに来てくれたのだが、そのときには既に制服に着替え終わっていた。
「おう。おはよ」
「おはよ!」
麻柚は毎朝元気だ。すっきり目覚められる体質のようで羨ましい。
家から中学までは近く、十五分くらい歩けば着いてしまう。だから、俺と同じくらいの時間に起きて、登校前にチョンの散歩をするのが麻柚の日課だ。
来年、麻柚が高校生になってしまったら、散歩はいつ誰がすることになるのか、まだわからない。
「こんなに早く用意してるってことは、特別なことがあるんだね? 例のルカちゃんて人と朝デート? 朝から何するつもり?」
麻柚は何やら勘ぐっているが、全くの見当違いだ。
「何度申し上げればご理解いただけるんでしょうかね、マユさん。あいつとはただのクラスメートだと言っておりますのに」
「改まって言うところがますます怪しい」
だめだこりゃ。
「残念ながら俺は色恋沙汰とは無縁なんだよ」
俺は溜め息混じりに呟いた。
「またまたー」
「冗談じゃねえんだよ」
「え、そうなの? お兄ちゃんモテそうなのにい」
「どこをどう見たらそう思えるんだ」
「全部」
「……お前が妹じゃなかったらよかったよ」
「妹じゃなくていいの?」
「……は? いや、お前が妹でよかったんだが、その、恋愛対象に、お前みたいな奴が」
「あ、お兄ちゃん、パン焼いたげよっか」
「……ああ、頼むわ」
俺に興味があるのかないのかさっぱりわからん。
妹はパタパタと足音を立ててキッチンへ向かう。
早起きというのは清々しいものであるはずなのだが、残念なことに今日の俺は早起きではなくオールだったので、眠くてたまらない。洗面所に行って、冷たい水で顔を洗った。ああ、目が覚める。いや、眠い。表面がさっぱりしただけで脳内はぼんやりしたままだ。
「焼けたよ!」
麻柚が洗いたての俺の顔に焼きたて食パンを押し付けてきた。なんかベトベトする。
「お前……」
「今日はハチミツ塗ってみた!」
「…………随分、早く焼けたな」
洗ったばかりの顔になかなか落ちなさそうな蜂蜜をベットリつけられたことはあえてスルーする。焼きたての食パンは思っている以上にカリカリしていることも、洗いたてのナイーブな肌にそれが刺さって痛いことも黙っておく。
「あたしの分として焼いてたパンなんだけど、お兄ちゃんのほうが先に出かけるんだから食べていいよ」
「ありがとうな優しい妹よ!」
俺はとりあえず顔の蜂蜜をそのままにして、パンをほおばった。もう、眠気と混乱と疲れとで、目の前にある問題をひとつずつ片づけていくことしかできない。
「で、お兄ちゃん、何時に出るの?」
「え、いつもと同じだけど」
「へ? そしたらいつデートするの?」
「だから、何度も申し上げておりますように、色恋沙汰は皆無なんですわ。今日は眠れなくて起きてただけなんですわ」
「え、眠れなかったの? 一睡もしてないの? 大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど……頑張るしか」
「お兄ちゃん、パン食べないと。出かける時間になっちゃうよ」
お前が話しかけてくるから答えてたんだろうが!
「お兄ちゃん、あたし明日ソフトボール部の助っ人で、試合行ってくる」
「ふーん、頑張れよ」
「お弁当よろしくね」
「ふーん」
ああ、眠い。
電車はいつも通り満員で、俺はドア付近に立っていた。朝、座れたことは一度もない。
「マヒロくん」
そんな状況でいきなり耳元で名前を囁かれたら、誰だってびっくりして調子はずれの声を上げてしまうと思う。いや、俺だけか。そうなのか。
「ほぎゃ!?」
「うふふ、マヒロくんてそんな高い声が出せるのね」
「る、ルカ!? なんでお前がここに」
「何度も言ってるじゃない。私、あなたの家の近くに引っ越したのよ」
「ああ、そうだったな」
それは、引っ越したら偶然近くだった、というのではなく、“わざわざ”あなたの家の近くに引っ越した、というニュアンスに聞こえないこともなかった。偶然を装った意図的な行動である可能性も、今は否定できない。
「マヒロくん、感情を顔に出しすぎよ。私を妖しい目で見てるわね」
「怪しいっていう発音が心なしかイヤらしく聞こえたぞ」
「うふふ。マヒロくんって面白いのね」
「どこがだ」
「確かに、私はマヒロくんに対して、今新たに秘密を持ってるわ」
「新たに?」
「もともとマヒロくんに黙ってたことがそれぞれ派生して、たくさん増えてしまって」
「なんなんだよそれは。言え」
「言ったら、秘密じゃなくなっちゃうでしょ☆」
瑠果は人差し指を唇に当てて肩をすくめ、片目を閉じた。
「お前、可愛くすれば見逃してもらえると思うなよ」
「あら、可愛かった? ありがとう。マヒロくんにそんなこと言ってもらえるなんて」
「褒めてねえよ」
「可愛いって言ったじゃない」
ぷう、と瑠果は頬をふくらませた。可愛かった。
「それから」瑠果はすぐに普通の顔に戻って言う。「秘密というんじゃないけど、私は今日のマヒロくんに足りないものも知ってるわ」
「え」
なんだなんだ。運気か。注意力か。生命力か。睡眠時間か。それ正解。
瑠果は俺の顔を見つめ、今にも壮大なことを言いそうな表情で、ゆっくりと口を開けた。
「マヒロくん」
「は、はい」
「あなた、今日……」
「はい」
「携帯を忘れたわね」
は、はい?
「あ」
言われてみれば、持った記憶がない。俺は、意味もなく胸ポケットや鞄を探りながら、ないことを確信していた。家では携帯を机の充電コードに繋げておくのだが、多分そのままにしてきてしまった。
恐ろしい。
忘れたことが、ではない。俺の携帯が鳴ることなんて、ほとんどないのだ。
瑠果が俺の携帯のことを、なぜ知っているんだ。
「お前、まさか……俺の携帯にGPSか何か、仕込んであるのか?」
「うふふ、マヒロくんて本当に面白……はっ」
瑠果が、見たこともない素の表情で何かに驚いた。いや、驚いたのか、閃いたのか、気づいたのか、判らないがとにかくハッとして目を見開いた。
「どうした?」
「なんでも……ないわ」
瑠果が恥ずかしそうに目を逸らす。なんだこいつ。
「とにかく、今日は楽しみだわ」
「は?」
「こっちの話よ」
「じゃあ口に出すなよ」
俺のその言葉にむっとしたようで、それから瑠果は学校まで一言も喋らなかった。