5■木曜日のアルバイト

 
〈3〉
 

「こ、怖いよお兄ちゃん」

「え? ああ、だってお前が暗くしたんだろ」

 階段を駆け上がりたいのだが、麻柚の足がもつれている。暗くて段が見えないらしい。

「くそっ」

 俺は麻柚をお姫様抱っこした。帰宅部とはいえ、並みの男子の体力くらいはある……あれ、重い。麻柚、重いぞ。いや、そんなことは口が裂けてもいうまい。早く外へ……

「!」

 いきなり目の前に人が現れた。螺旋階段なので先が見えないというのもあるが、今の現れ方は普通じゃなかったと思う。

 しかもそれは、瑠果だった。

「お、お前、なんで……」

「お兄ちゃん、どしたの?」

 ああもう、なんで見えないんだよ、こんなの口で説明してる場合じゃないのに。

 瑠果は喋らない。ただじっとこちらを見ている。いや、焦点が定まっていないようだった。当然だ。こいつもトリメなのだ。

 しかし、なぜここにいる?別のルートでもあるのだろうか。

「お兄ちゃん?」

 状況を把握できない麻柚が不安そうに俺を呼ぶ。ええい面倒だな。

「ルカが目の前にいるんだよ」

 仕方なく教えてやる。すると麻柚は驚いたが、すぐ首を傾げた。

「人の気配、しないよ?」

「いるんだよ」

「そんなわけないよ、タバスコが目に入ったら、しばらく目を開けられないはずなのに」

「は?」

「さっきのやつ。マユ特製の催涙銃なの」

「え、塩酸じゃないのか?」

「当たり前でしょ。塩酸って言ったらルカさんたちも怯んで、ちょっと時間稼げるかなと思ったの」

 麻柚が楽しそうに喋るのを、瑠果はただ黙って聞いている。こちらが見えているのかいないのか、わからない。

 ゆるめちゃんじゃないから、突き飛ばしてしまえば捕まらずに先へ進めるかもしれない。行ってしまおうか。女性に暴力は振るいたくないが、やむを得ない。

 俺は体を横にして麻柚の盾になり、瑠果と壁の間に突進した。俺の背中にぶつかって瑠果が突き飛ばされる感触が……、しなかった。

「え?」

 振り向くと、瑠果の姿はなかった。誰もいない。

「お兄ちゃん?」

「……ルカが、消えた」

「最初から誰もいなかったって」

「いや、お前は見えないんだろ?」

「お兄ちゃん、立ち止まってないで早く逃げようよ」

「あ、ああ、うん」

 何がなんだかわからない。階段を上がりながら、混乱する頭の中を整理しようとするが、整うわけがない。

 パニックになりつつ、どうにかドアまでたどり着いた。麻柚を降ろして立たせる。

「完全に真っ暗な階段を上って来たから、ドアの隙間の光で少し見えるようになったわ」

「おお、ホントか? よかった」

 が。

「ノブが、ない」

 俺は呆然とした。目の前にあるのは、なんの凹凸もない、ただの真っ平らな板だ。

「え、何このドア、どうやって開けんの? え?」

「お兄ちゃん、落ち着いて」

「ここまで来たのに! ドアが開かないってどういうことだよ!」

「お兄ちゃん、落ち着いてってば」

「落ち着いてるよ」

 困った。でも困っている時間はない。これはもう、破壊するしか。

 塩酸だと偽って催涙銃をぶっ放してきたのだから、今更ドアを壊す罪悪感など必要ない。むしろ被害者はこちらなのだから。

「よし」

「お兄ちゃん、何する気?」

「ぶち破ろう」

「え? でも、そのドア……」

 妹にカッコイイところを見せたいという気持ちもあったかもしれない。無茶をした。

 できる限りの力で、俺はドアに体当たりした。

「うぉりゃああああああ!!」

 ガチン。

 …………。

「え?」

 何かズレていたものがあるべきところに納まったような、もしくは何かがセットされたような、あるいは何かのスイッチを入れたような音がした。

《ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ》

 大音量のサイレン。

「え! え!」

 この上ないパニック。

「お兄ちゃん、このドア」

「え! 何? 聞こえない!」

「こーのードーアー! 内開き!」

「あ」

 そういえばそうだった。入るとき、ドアの開き方が蝶つがいと逆だったじゃないか。獲物を逃がさないように、か。確かに、引いて開けるドアは押して開けるよりも少しだが足止めになる。このドアは押すものと思っていたなら尚更手間取る。そのうえノブがなければ開けられない。

「くそ、やられた」

「インドア派のお兄ちゃんが内開きのドアを破れるはずがないのよ。漫画ならともかく」

「ええ、ええ、そうですとも」

 しかしこれじゃあ、瑠果たちは自分たちが出るとき一体どうやって開けるのだろうか。

 とにかく、獲物が逃げないための策を講じているとなると、あいつらが怪しいことをしているのは明らかだ。このまま捕まってたまるか。

「つーかまーえた」

「え?」

 耳元で突然ゆるめちゃんの声がしたと思ったときには、既に腕を掴まれていた。

 サイレンが止まる。

「マヒロくん、ヒドイ妹さんがいるんだね~。まだ目がちくちくするよ~」

 俺の妹を悪く言うな。

 ていうか。

 そんなまさか。

「えええええ!」

 こんなに必死に逃げたのに脱出失敗かよ!! いつの間に来たんだよゆるめちゃん! これも幻覚か? さっきの瑠果みたいに。

 ゆるめちゃんは、この短時間にどこで装着したのか、ゴーグルをしていた。麻柚特製催涙銃対策か。

「お兄ちゃん、どいて」

 麻柚が、「あたしに任せて」的な力強い言い方をした。しかしゆるめちゃんに掴まれているのでどけない。

「ああんもう」

 麻柚は俺がゆるめちゃんにガッチリ捕まっているのを知って色っぽい声を出した。本人に自覚はないだろうが、実に色っぽかった。

 麻柚は銃口をゆるめちゃんの顔に向けた。ゴーグル少女は余裕の笑みを浮かべる。

「へへん、目の保護はばっちりだすよん」

「そう、よかったわね」

 麻柚は殺し屋のような(殺し屋を見たことがないが)クールな表情で、ゆるめちゃんの胸倉を掴んだかと思うと勢いよく引っ張り、くるりと回ってドアに叩きつけた。そして聞いたこともないような低い声で言う。

「これがさっきの水鉄砲だっていう確証がどこにあるの?」

「!」

 ゆるめちゃんが息を呑む。俺も呑んだ。まさか。ほ、本物?

 ゆるめちゃんの目が鋭くなった。彼女は怪力だ。簡単に逃げられてしまうだろう。

「動いたら!」それを察したのか、麻柚は大声で制した。そして見えないくらいのスピードで銃口をゆるめちゃんの額に当てていた。「引き金を引くわよ。さっきのあたしのスピード、見たでしょ?」

 ゆるめちゃんは動けなくなる。心なしか怯えが見える。麻柚、いいぞ。俺の妹ってこんなに怖い奴だったんだな。知らなかったぞ。

「そうでなくても、衝撃を受ければ銃が暴発するわ。暴れないことね」

 なんだか、すごく台詞を言いなれている感じなんだが。妹は俺の知らないところで何か物騒なことをしてるんじゃなかろうかと不安になる。いや、やってるだろ多分。

麻柚は銃口を少しずつ下ろすと、ゆるめちゃんの口に無理やりねじ込もうとし始めた。

「むが!? んぐ、むぐぐ!」

 それでもゆるめちゃんは俺の腕を離さない。

「むぬぶうんぐっぐー」

 多分、「何するんだすかー」とか言ってるんだと思う。結局、口に突っ込まれてしまったその姿は、なんともやばい絵面だった。

 麻柚は一層低い声で命令した。

「死にたくなかったら、このドアを開けて。早く」

 麻柚が銃口をぐいぐいと入れて促している。ゴーグルの奥で、ゆるめちゃんの目がうるうるしていた。これはやばい。すげーやばい光景。

 ゆるめちゃんは、ようやく俺の腕を離した。制服のスカートのポケットに手を入れる。麻柚は、武器かもしれないと身構え、睨むようにそれを見つめていた。が、出てきたのは長さ約五センチ、太さ三ミリほどの金属製の棒だった。先が六ミリか七ミリくらい九十度に折れている。反対の端は、曲げられて直径一センチくらいの輪になっていて、もこもこしたキーホルダーがついている。

 麻柚にそれを渡すと、ゆるめちゃんはドアを指差した。通常ならノブがついている辺り。よくよく見ると、縦長の穴がある。ここに挿すわけか。

「お兄ちゃん、お願い」

 差し出され、俺は鍵らしきものを麻柚から受け取った。

 麻柚は、ゆるめちゃんの腕を掴んで歩かせ、ドアから離した。解放されると思ったのか一瞬ゆるめちゃんの表情が緩んだが、押しつけられる場所がドアから壁に変更されただけだった。

 愛する妹にお願いされては仕方ない。金属製のそれを、俺は穴に挿し込んだ。一センチくらい入れたところでそれ以上入らなくなったので、適当に回してみる。

 カ、チャ。

「やった」

 俺は麻柚と目を合わせる。しかし麻柚は笑っていない。

「お兄ちゃん、そのドア、引くんだからね。そのまま引っ張れるの?」

「え、ああ」

 金属製とはいえ、細い棒を引っかけたくらいでドアが開くのかは疑わしかった。でもとりあえず、プル。

 その手にほとんど力を入れないうちに、バチーン!! と勢いよくドアが開いて俺は吹っ飛ばされた。麻柚もゆるめちゃんもドミノ倒しになって階段を数段転げ落ちる。一瞬のことだった。

 なんだ、何が起きた?

 ちょっと引いただけでロックが外れてバネ仕掛けで開くようになっていたのだろうか、などと真面目に考えてみた。しかし顔を上げた俺は、ああ、と声を漏らした。

 瑠果が立っていた。

 銃口をこちらに向けて、無表情で。ビルの間という薄暗い場所ではあるが、今まで閉じ込められていた階段が暗かったから、逆光で瑠果がモノトーンに見える。

 ドアの外で頃合いを見計らっていたのだろう。俺がロックを解除したところでドアを蹴り飛ばすか何かして、だからこんなことに。

 麻柚に負けずとも劣らぬ、冷たい眼差しに刺されて痛い。あまりの情景に俺は神経が麻痺していた。バイト探しに来たんじゃなかったっけ、俺。なんで水鉄砲合戦なんだよ、笑える。

「これが水鉄砲だっていう確証がどこにあるの?」

 瑠果が言った。いやいや、笑える。なんか言ってるけど誰か助けてあげて。

「はぇ……」

 変な声を出したのは、ゆるめちゃんだった。

「うかひゃん、まはか、あくがれ、れきうよういらったん?」

「「は?」」

 俺も麻柚も思わずゆるめちゃんを見る。なんだ今のは。呪文か。

 ゆるめちゃん自身も、きょとんとしながら口に手を持っていき、指先で確認した。

 しばし沈黙。

「……ひえぇえええええええん!!」

 突如、赤ん坊のような声を張り上げ、ゆるめちゃんは涙をどばっと流した。

「前歯が折えひゃっはああああああああ」

 あー。ピストルをくわえたまま、階段を転げ落ちたからか。

「痛いおおおおおおおおお」

 声がデカいのと可愛いのとで、あまり哀れむ気持ちが湧いてこないのだが、ああ、この歳で前歯が挿し歯になるって、切ないものだな。

「とりあえず、あなた洋梨なのよマヒロくん」

 瑠果の声に反応して入り口のほうに向き直ると、銃口が俺の額に当てられた。

 なんとも思っていないらしいが、瑠果、お前がドアを勢いよく開けなければ、ゆるめちゃんは挿し歯人生を送ることにはならなかったんだぞ。

「用なしっていう発音が心なしか美味しそうに聞こえたんだが」

「そんなわけないでしょ」

 ぴしゃりと否定された。しゃくに障る。

「お前、このやりとりが面白いと思ってるなら、残念ながら勘違」

「マヒロくん、残念ながらあなたは使い物にならない。妹さんを置いてさっさと出てってくれるかしら」

 言葉を遮られた。わざと「残念ながら」を流用して。あー、あー、しゃくに障る。

「お前がそこにいたら出られないだろ」

「あら、そうね」瑠果は体を横にした。「どうぞ、出てって」

 銃口は俺の額に当てたままだ。

 腹立たしいのでもちろん出たいが、妹を置いていくわけにはいかない。どうしたらいいのか。というか、こいつらの目的が全くわからないから混乱しているのだ。これだけ騒いで、実は何も恐れる必要のないことだったのなら笑い話だが、瑠果がピストルを構えていることからしてそれはないだろう。説明して納得させられることでもないから、瑠果たちは説明もしないのだろう。

 でもこれはちょっと、失礼じゃないのか。

「今は両親がいない。マユの保護者は俺だ。俺はマユを守らなきゃいけないんだよ」

 ちょっとカッコイイ台詞を言ってみた。

「マヒロくんが言うとキモいから、そういうのやめたほうがいいわよ」

 瑠果の言葉の暴力がぐさりと胸に刺さった。

「これはね、マヒロくんの命にも関わることなの。妹さんを置いていけば、みんなが助かる希望を持てる。私に逆らうなら、マヒロくんはこの銃に倒れる。地球も滅亡するかもしれない」

「なんだそれ」

 俺は完全に呆れた顔をしてしまったらしく、瑠果はものすごく不機嫌そうな表情で銃口を強く押してきた。

「ちょ、やめろ、階段落ちる」

「落ちればいいのよ」

「やめろ」

 俺は思わずそのピストルを掴んでいた。目を見開いた瑠果は、俺の手を振り払おうとした。

 バン! と発砲音が響く。

「え」

 ……空気が凍りついた。

 火薬のにおい。

「ほ、……本物」

 麻柚が思わず呟いた。

 幸いにも弾は誰にも当たらず、コンクリートの天井にめり込んだ。弾が跳ね返るような壁じゃなくて本当によかった。本当に本当によかった。

 小刻みな揺れを感じて、地震が起きたのかと思ったら、俺の体が震えていた。今更、恐怖が俺の体を駆け巡ったのだ。

 あの銃口を額に当てられていたのだと思うと、生きていることが不思議に思えた。俺はなんであんなに平気でいられたのか。

「きゃっ」

 麻柚の小さな悲鳴が聞こえた。

「ほんもろ、ってびっくいふうっへこほわ、こえわいへもろあんにゃろ!」

 ゆるめちゃんが麻柚の手にあるピストルを掴んでいた。ひったくろうとする。麻柚が必死でピストルを守ろうとし、階段を踏み外しかけた。

「マユ!」

 ああ、くそ、助けたいのに瑠果の拳銃が俺を狙っている。

 多分、ゆるめちゃんは「本物、ってびっくりするってことは、これは偽物なんじゃろ」と言ったのだ。麻柚のピストルは、やはり催涙銃なんだな。それがバレてしまったからには、麻柚は不利だ。ピストルのおかげでゆるめちゃんの怪力を封じていたのだから。麻柚の細い腕を折られてしまうんじゃないかと俺は怖れた。

 あれ、そういえばゆるめちゃん、前歯を確認する前にも何か言っていたけど、あれはなんて言ってたんだろう。

「離しなさいよっ」

 麻柚がゆるめちゃんのスネを蹴った。

「あへっ」

 一瞬ゆるめちゃんの力が抜ける。麻柚はすかさずゆるめちゃんを突き飛ばし、逃れたと思うとさらに攻撃に入った。またもゆるめちゃんの口にピストルを入れ込もうとする。そんなことしたってもう無駄じゃないのか。水鉄砲だってバレてるのに。

 怪力なゆるめちゃんが暴れるのも構わず、麻柚は怯むことなく銃口をゆるめちゃんの顔に押しつけている。と思ったら、とぅるっと銃口がゆるめちゃんの口に入ってしまった。おいおい、ゆるめという名前だとはいえ、なんてゆるい口なんだ……と思ったが、そうか、前歯がないのか。一本折れたくらいだと思っていたのだが、あの感じでは二本以上なくなっているな。

「ぐげぽっ」

 ゆるめちゃんが吐いた。

「ぐほ、げへっ、けほ、う、ううええ」

 え、え、どうしたの一体。

「カプサイシンパワーなめんなよ」

 麻柚が不敵な笑みで言い放った。どうやら、トウガラシ溶液がゆるめちゃんの喉の奥に噴射されたようだ。

 麻柚のキャラもよくわからなくなってきた。兄だというのに、俺は妹のこんな顔を把握していない。

「だ、だんでごど、ぐうげほっげほっ」

 ゆるめちゃんはガラガラ声で何か言い返そうとしたが、ガラガラすぎるのと前歯がないのと咳き込むのとで全く聞き取れなかった。

「ぐがあああ」

 ゆるめちゃんが鼻をつまんでいる。ああ、そりゃ鼻にも流れるわな。すごい威力の水鉄砲なのだということを思い出す。気管にも入ったんじゃないだろうか、大丈夫か。

「お取り込み中すまないけれどもよ」落ち着いた声で、瑠果が言う。「こちらは遊んでるヒマないの。マヒロくん、妹さんを貸して」

「お前、今この状況で言うことかよ。嫌だね」

 はっきり答えてやった。瑠果は俺を睨みつける。

「世界の運命がかかってるのよ」

「だから、大袈裟なんだよ。なんで世界平和がマユの手にかかってんだよ」

「手じゃないわ。目よ」

「は?」

「ぐえほ、えほっけほっうええ」

「うるさい!」

「ひ」

 瑠果の一喝でゆるめちゃんが息を止めた。一応ゆるめちゃんは瑠果の仲間なんじゃないのかよ。邪険に扱いすぎだろ。

「マヒロくん、真面目に聞いてくれないだろうと思って今まで黙ってたけど、今、地球が危ないのよ。予想より展開が早くてこちらも焦ってるの」

 瑠果が真剣な声で話を続けるので、俺は彼女に視線を戻した。

「温暖化とかか?」

「宇宙人よ」

 真剣な顔でまた異次元の話を。

「ほらね、正直に話しても取り合ってくれないでしょ」

「当たり前だ。お前みたいな頭のおかしい連中にマユを預けられるはずないだろ。頼むから帰らせてくれ」

「頭のおかしい……?」

「ああ、ああそうだよ。おかしいよ。おかしいだろ。何が宇宙人だ。それともあれか? 地球人もある意味宇宙人だ、みたいなヘリクツを言うのか?」

「それもそうね。奴は私たちのことを宇宙人と呼んでいるわ」

「奴って……」

「ルカさん!」

 麻柚が俺の背後で声を張った。麻柚、人の話に割り込むことが多いな。もしかして空気読めない人間だったのか? 俺、麻柚について知らないことが多いな。

 見ると、麻柚は飽きずに銃口をゆるめちゃんの口に突っ込んでいた。ゆるめちゃんはまだ喉が痛むらしく、うっ、うっとえづいている。

「このピストル、発射し続けることができるのよ」麻柚はゆるめちゃんの首の後ろをがっちり押さえている。「この人を窒息死させたくなければ、あたしとお兄ちゃんを解放し」

 バン!

 発砲音が響き、ゆるめちゃんの体がビクッと動いて倒れた。ゆるめちゃんを捕まえていた麻柚も支えきれずにしゃがみ込む。瑠果がピストルを構えていた。

 え。

 まさか。

 現実逃避。俺は数秒、ぽかんとして突っ立っていた。しかし夢ではないのだ。目の前で、人が、人が、撃たれた。

「………………うわああああ!! ゆるめちゃん!!」

 俺は駆け寄った。目の前で人が殺されるなんて、そんなこと、そんな、嘘だろ。

「ゆるめちゃん!」

「世界が危ないのよ」

 瑠果が全く変わらない調子で話し続けようとする。

「お前、バカか! バカだな! バカだよお前!! 何してんだよ!!」

「大事な話の邪魔になるからよ」

「なんてことしてくれたんだよ! 信じられない……」俺は今日何度目かのパニックに陥っていた。「こんな……こんな卑劣なことする奴に協力するわけないだろうが!!」

 狭い階段に俺の怒鳴り声が反響して吸い込まれる。

「大丈夫よ」瑠果は平然としていた。「その子こんなもんじゃ死なないから」

 愕然とした。するしかなかった。もしかして何かの宗教なのか。拳銃で撃っておいて死なないとは、一体……

「あれ」

 そういえば、撃たれたはずなのにゆるめちゃんから血が流れている様子がない。

「これって、どういう……」

「ひっく」

 ゆるめちゃんがしゃっくりをした。

「え!?」

 麻柚も仰天してゆるめちゃんをまじまじと見る。

「ひっく、ひ、ひっく」

 ゆるめちゃんは確かに、明らかに生きていた。

「ひっく、横隔膜がひげひっく、ひげきはれてひっく、」

 ゆるめちゃんが、ガラガラ声で何か言おうとしている。前歯がないせいでサ行が完全にハ行でしか発音できなくなっていて、さらにしゃっくりが邪魔をして何を言っているのかさっぱりわからない。ていうか、なんで生きてるんだ。おい。

「ひゃっくりが止まひっく、止まららくなっひゃひっく」

「これ以上邪魔すると本当に殺すわよ」

 瑠果がゆるめちゃんにイライラしている。

「ルカ、いい加減にしろ」

「いい加減にしてほしいのはこっちよ。マヒロくんは使い物にならないっていうのにわざわざここまで連れてきちゃって、こんな面倒なことになったのはゆるめちゃんのせいじゃないの。こっちは、せっかくマユちゃんの心を掴んだっていうのに」

 心を掴んだ? 何を言ってるんだ。

「ひっく、ひ」

「うるさい!」

「ルカ、頼むから落ち着け。生理現象だぞ」

「今度騒いだら頭ぶち抜くわよ」

「ルカ……」

「とにかくマユちゃんを貸して。そんなに妹が大好きなら一緒にいさせてやってもいいわ。でも騒いだら頭ぶち抜くわよ」

「俺もかよ」

「みんな両手を頭の上に。黙って階段を下りて。怪しい動きをしたら頭ぶち抜くわよ」

「ルカ……」

「ぶち抜くわよ」

 有無を言わせぬ瑠果の態度に、怖いというよりも半ば呆れた感じで、三人は従った。ゆるめちゃんが普通に俺や麻柚と同じく動いているのが不思議でならないのだが。撃たれたはずなのに。ていうかゆるめちゃんは瑠果の仲間じゃないのかよ、なんで俺らと同じく頭に手を乗せてるんだ。よくわからん。

 

5■木曜日のアルバイト〈4〉へ続く

 

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