3■火曜日のスペアレッド

 
〈2〉
 

 かちかちかち。

「ん?」

 夜。俺の部屋。

 宿題をやろうと思う瞬間には必ず、意欲をそがれることが起きるものだ。

 例えば親の「宿題やったの?」。今やろうとしてたところだ、と言っても絶対に信じてもらえない。本当にやろうとしていたのに、だ。親は、せっかくのヤル気を失わせているのは自分だとも気づかずに、お説教を始めたりする。そんな理不尽な扱いをされることに嫌気がさして不良の道に逸れたりすると、「どうしてこんなことに」「こんな子に育てた覚えはない」と言い始める。に、違いない。俺は不良ではないので飽くまで想像だ。

 しかし幸いなことに、今、我が家には親がいない。だからそういう邪魔は入らない。

 だが、昨日は瑠果からの電話。そして今日は、

「んんん?」

 いつも使っているシャープペンシル。どんなにノックしても空虚感が漂うだけで、振っても音がしなかった。心なしかいつもより軽く感じる。

「なんだよ」

 俺は机の引き出しを開けてみた。ボールペンやマーカーばかりで、芯や他のシャープペンシルはなかった。

 俺はすっくと立ち上がり、部屋を出た。

「マユ、シャーペンの芯あるか?」 

 俺はノックもせず麻柚の部屋に入る。

「うわ、ちょっとお兄ちゃん、着替えてるときに入ってこないでよ」

「あ、悪い悪い。シャー芯がほしいんだけど」

 ちょうど制服を脱いだところだった麻柚は、「ええー? 芯? 勝手に取ってって」と言ってからピンクのスウェットを被った。

「どこにあるんだよ」

「やっぱりお兄ちゃんは鈍感だね」

「なんでだよ」

「見てわかんないの? そこにあるでしょ」

「そこって、どこだ」

「光ってるじゃない。見えないの?」

 麻柚は机のほうを指差す。机の上を見てみたが、俺が貸した漫画が置いてあるだけだ。

 こいつは宿題とかしないのかよ? シャー芯どころか筆記用具ひとつ見当たらない。

 そして、輝くものなど存在しない。デスクライトも消えている。

「……お前さ、この前から言ってるその、光るってのはなんなんだ?」

「え」俺の問いに、麻柚は心底驚いた顔をする。「お兄ちゃん、もしかして全然見えない人なの?」

 なんか俺が劣っているような言い方をされた。不愉快。

「俺には何が見えてないっていうんだ」

「普通、芯はどこだろうって思ったら、光るじゃない」

「何が」

「芯が」

 はい?

「やだ、お兄ちゃんって超鈍感な部類だったの? ショックぅ」

 待て待て待て。なんか俺が超劣っていると断定されたぞ。超不愉快。

「お前は超能力者か何かか? そんなことできたら人生苦労しないだろ」

「ええ? 何言ってるのお兄ちゃん。普通のことだよ」

「普通じゃないって」

「普通だよ」

 麻柚の頭がおかしくなってしまったのだろうか。病院に連れて行くべきだろうか。挙動はしっかりして見えるのに、俺の妹がおかしくなってしまった。どうしよう。

「お兄ちゃん」麻柚は、上がスウェット、下は制服のスカートのままという格好で俺に歩み寄り、完全なる真顔で訊いてくる。「ほんとに全然見えないの?」

 ……ほんとに、全然、見えませんけど、何か。

「あ、当たり前だ」

 俺がうろたえてしまう。だってそうだろう。なんだこれ。なんだこれやばいぞ。動揺。

 俺の可愛い妹が、狂ってしまった。

「最近、頭とか打ったか?」

「お兄ちゃん、バカにしないでよ」

「俺はバカにしてない」

 俺が馬鹿にしたんじゃない。お前が勝手に馬鹿になってしまったんだ。

「どうしたのお兄ちゃん、すごい汗」

「俺のことはいい。お前、本当に、どうしちまったんだ」

「私は昔からこんなだけど」

「昔から、そういう光が見えてたわけか」

「うん」

 昔から狂っていたのか。

「三年前くらいから、更によく見えるようになったよ。身長と一緒に成長していくもんなんだなあって思ったんだけど、お兄ちゃん、成長期もう終わるんじゃない? 大丈夫?」

 俺が絶句していると、麻柚はものすごく心配そうに俺の顔を覗き込んだ。

「まさか……自分が鈍感だってことにも気づかないほどに鈍感だったの? お兄ちゃん」

 え、俺!? 俺が劣っているのか!? そうなのか!?

 そんな、そんなまさか。

 麻柚が解るように教えてあげないと。

「お前、友達と、光が見えるとかどうとか、そんな話をしたことあるのかよ?」

 麻柚、目覚めてくれ。お前がおかしいんだぞ。

「そんなの、当たり前すぎて話題にも上らないよ」

「……そ、それは当たり前なんじゃなくて」

「お兄ちゃんは、『俺、息してるんだよ』とか、普段の会話でわざわざ言うわけ?」

「それは、わざわざ言うことじゃないだろ」

「同じことだよ」

 そんな馬鹿な。

「ほしいものをどこにしまったか忘れちゃって、うわああんってパニクりながら探してる人を見たらさ、」麻柚は両腕をばたばたさせてパニクる状態を表現した。「お前しっかりしろよー大丈夫かよーって、周りの人は笑うじゃない?」

 なんじゃその例えは。

「それは……、しまった場所を忘れたことに対して言ってるだけだろ」

「ええ? 光が見えない人をバカにして笑うんだよ。私はそういうの嫌いだけどね」

「じゃあお前は、物を失くしたりしないってことか!」俺は麻柚を指差した。「何かを捜すとか、忘れ物するとか、そういうことは一切ないってのか!」

「お兄ちゃん……」麻柚が、切ない表情で、俺を哀れむように見る。「意識して捜すから、光るんだよ? 忘れ物くらい、あたしだってするよ」

「ぐっ」

 忘れ物をするって話を、そんなに堂々と言われたのは初めてだ。じゃなくて。意識して捜すと光るのか。そうか。

「じゃあ、じゃあお前は、宝探しも、トランプゲームも、楽しめないわけか!」

「そういうのは鈍感な人が楽しむものだからね」

 なんと!

「まあ、何が宝なのかわからない時は、あたしも何を探したらいいものかわからないから、一緒に探すしかないけどさー」

 麻柚はスウェットのズボンのほうを履きながら、なんでもないことのように言った。冗談で言っているようには見えない。本気だ。真面目だ。こうなったらもう、実際にわからせてやるしかない。

「マユ。俺は確かに鈍感だ。お前の言ってることがわからない。だから証明して見せてくれ。俺が言うものを持ってきてみろ」

 俺はわざと下手に出た。

「何?」

 麻柚が微笑む。

 できると思っていることができないという衝撃を味わわせないと、こいつは自分がなんでもできると思い込んでしまう。俺は心の中でほくそえんだ。

「俺の部屋から、秘蔵のエロ本を見つけられるか?」

 腕組みしながら俺はミッションを与えた。

 見つかるわけはないのだ。なぜなら……

「ないよ」

 麻柚が即答した。

「えっ」

「ないよ。お兄ちゃん、持ってないんでしょ。そういうの」

「……あ、いや、お前、俺の部屋に行って探してみろよ」

「ないものはないもん」

「お、お前あれだろ、やっぱ光ってみえるなんて嘘なんだろ。見つけられないんだから」

「お兄ちゃんは三次元より二次元の萌えのほうが好きなんでしょ」

「うっ」

「だから持ってないんでしょ? 強いて言えば、萌え萌えなあの漫画コレクションが、お兄ちゃんにとってのエロ本なんだよ。特にベッドの下の漫画がお気に入りなんでしょ」

「ううっ」

 知っていたのか、妹よ。

「とにかく、お兄ちゃんの部屋からはエロ本の気配を感じない」

「気配って……」

「もしも三次元がほしくなれば、今はネットで簡単に見られるもんね。画像どころか、動画も見られちゃうもんね」

「なんでお前がそんなこと知ってるんだ」

「お兄ちゃん、これじゃ満足いかないだろうから、お兄ちゃんの部屋からシャーペンの芯を捜してあげる」

「え?」

「それで信じてくれるでしょ」

「あ……あるもんなら、出してみろよ」

 自分で試練を作り出すとは、アホな妹だ。シャー芯こそ、ないんだから見つからないぞ。俺はモヤモヤと苦しい胸を押さえながら、俺の部屋へと向かう麻柚についていった。

「あれ?」

 俺の部屋のドアを開けた麻柚が、首を傾げた。

「どうした」

「いや……そのカーテンが揺れたような気がしたんだけど。気のせいか」

「窓は開けてないぞ。怖いこと言うなよ」

「見間違いかも。てへ」

 麻柚は自分の頭を小突いてぺろっと舌を出した。そういうのやめてくれ。可愛いから。

「じゃあ、まず、ここ」

 麻柚は机の引き出しを、ストッパーにガツンと引っかかるくらい勢いよく開けた。

「お、おい!」

「二つも未使用があるじゃない」と麻柚が指差す。

 引き出しの一番奥に、『40本入りHB』というシールが貼られたケースが、あっちとこっちにあった。いったい何年前に買ったかも覚えていない古い新品だ。

「あれ……さっき見たつもりだったんだけど」

「あと、なぜか知らないけどベッドの奥、壁との間に挟まってる」

「え、ええ?」

「それから、何があったか知らないけど、一本の芯がカーテンレールの中に入ってる」

「ええええ?」

「それくらいかな。これで全部だよ」

 麻柚は、さも当たり前のことを述べただけというように、にっこりと笑った。

 正直、俺は実感も何も湧かず、ぽかんとした状態だった。

 ……いや、カーテンレールはねえだろ。あり得ないだろ。

 引き出しだって、奥に物が眠っているなんて、ありがちなことじゃないか。当てずっぽうだったんじゃないのか。

「マユ、待ってろ。確かめるから」

 俺はベッドと壁の間を調べてみることにした。

「ええー? 確かめるって……」

 鼻で笑う麻柚を無視して、毛布をめくり、隙間を覗こうとしたが無理だった。

「暗くて見えないんじゃない? 懐中電灯でも持ってこようか」

「は? そんなのいらねえよ」

 今は形がわかればいいのだ。色なんて必要ない。

 問題は暗いことじゃなかった。頭のてっぺんから目までの距離っていうのは意外と長く、壁に頭をくっつけても、隙間を覗くには幅が足りなかった。

 ベッドを引っ張って少し壁から離す。ベッドの上をハイハイして、広くなった隙間を覗いた。

 たまった埃の中に、なぜか綿棒が一本と、それから……

 確かに、なぜか芯の入ったケースがあった。『40本入り HB』。

 麻柚もベッドの上から隙間を覗く。

「お兄ちゃん、HBが好きなんだね」

 今、そこは問題ではない。

「あれ、お兄ちゃんって、耳かき派じゃなかったっけ? なんで綿棒が」

 そこも問題ではない。

 麻柚の言った通りになってしまった。出てきてしまった。芯が。

 まさか、まさかとは思うが、麻柚は本当に超能力を持っているのか? そんな馬鹿な。

「待ってろ。芯がカーテンレールになんぞ入るわけがない」

 俺はベッドから降りた。麻柚も降りる。

「もし入ってたって、カーテン開け閉めするときに落ちるだろうが」

「もしくは折れるとかね。あたしも不思議に思ったけど、あるんだもの仕方ないじゃん」

「なんでこんなところに入るんだよ」

「だから、知らないって」

 俺はレールを見上げた。カーテンレールの溝というのは、下側にあるのだ。何かの拍子に飛んでいったという無理やりな仮説を立てたとしても、下から入って未だに落ちていないとはどういうことだ。

 カーテンをゆっくり開け閉めしてみた。激しく開け閉めしてみた。何も起きない。

「おい、ホントにあるのか? どうやって確かめればいいんだよ」

 カーテンレールを外して逆さにして振る、というわけにもいかないし。

「カーテンレールを外して逆さにして振ってみたら?」

「うん、それは今、一瞬にして俺の脳内で却下された方法だ」

「だよね」

 麻柚は人差し指を立て、自分の頬にあてた。

「んー、芯があるのはね」頬に当てていた人差し指を、レールへ向ける。「大体真ん中あたり。このへん」

「ここか?」

 俺は半信半疑で(ここまでくると、半分は信じる気になっていた)、どうしたものかと考える。溝は細いので、指は入らない。何かL字型の細いものを入れ込んでほじくるか、もしくは……

「えい」

 どん!

 俺は手のひらでレールを叩いた。

「うわあ」麻柚が飛び上がった。「ちょ、お兄ちゃん、びっくりしたよ」

「悪い。振動で落ちてこないかなと思って。えい」

 どん!

「あ」「あ」

 今、何か黒くて細いものが落ちた。

「芯か? 芯なのか?」

「そうじゃない?」

「くそ、どこ行った。捜せ」

「今、お兄ちゃんが踏んでる」

「えっ」

「左足のほう」

「こっちか」

 左足を上げると、そこには黒くて細いものが落ちていた。

 おもむろに拾い上げる、俺。「芯……だな」

「芯だね」と妹も頷く。

 カーテンレールを見上げる、俺。「なんで、ここに?」

「さあ……」と妹は首を傾げる。

 不可解。

 しかし確かに、麻柚の言った通りだ。

 麻柚には、探し物が光って見えるという特殊能力があったのだ。

「マユ……」俺は芯をつまんだまま、自慢の妹を見つめた。「お前、すごいよ」

 麻柚は首を傾げ、困ったような表情になった。

「普通のことだと思うんだけど」

「普通じゃないよ」

「そうなの?」

「うん」

 俺が頷いたそのとき、俺の脳裏に瑠果の声が再生された。

 

<普通じゃないものを探して観察する仕事なの>

 

「!」

 俺は息を呑んだ。

 まさか。

 あいつが俺の周りを探っているのは、麻柚について調べるためなのか?

「マユ、お前……」

 俺は思わず妹の両肩を掴んだ。

「え、えっ、何? お兄ちゃん」

 瑠果の目的はなんなんだろう。こいつをどうするつもりなんだろう。

 ただ、普通じゃない人を見つけてお友達になりたいだけ、ということはないだろうな。

 捕獲して、人体実験なんかして、果ては殺しちゃったりするんじゃないか?

 恐ろしい。

 俺の自慢の妹に手出しはさせない。

 俺は妹をぎゅっと抱きしめた。

「く、苦しいよ、お兄ちゃん……」

 俺が守らなきゃ。

「お兄ちゃんてば、離してよ」

「マユ」

 俺はさらにきつく抱きしめた。

「んっ、お兄ちゃ……」

「お前、知らない人にはついていくなよ」

「……は?」

「何か訊かれても、お前の能力のことは誰にも言うな」

「どして?」

「どしてもだ」

 そんなことで瑠果から逃れられるとは思えなかったが、それでも何も言わずにはいられなかった。

 ああ、どうしたらこいつを守れるんだろう。

「お兄ちゃん、いい加減苦しいってば……」

「……あ、ああ」

 力を緩めると、麻柚はゆっくり離れた。髪が乱れていたので、撫でて整えてやる。麻柚は恥ずかしそうに顔を背けた。

 俺がなんだか心配そうなことに気づいたのか、麻柚は少しの間首を傾げて俺の顔を見ていたが、ふっと気持ちを切り替えたように身をひるがえした。

「もー。お兄ちゃん、ちゃんと見つけてあげたんだから感謝してよね。じゃ、あたし見たいテレビがあるから」

 軽く敬礼をして、妹は俺の部屋を出ていく。

 ぱたん。

 ドアが閉まり、俺の部屋には俺ひとりが残された。

 俺の部屋だからそれは普通のことなのだが、今まで夢を見ていたような、変な気分だった。でも夢なら、こんなに胸がざわめいたりしないよな。

 麻柚の身に、何も起きませんように。

 俺は祈るしかなかった。

 

4■水曜日のラブシック〈1〉へ続く

 

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