3■火曜日のスペアレッド

 
〈1〉
 

 無性にイライラしてなかなか宿題がはかどらなかった。

「お兄ちゃん、朝だよう」

 机に突っ伏して寝てしまっていた。妹に揺すられて目覚めると、もう家を出るまでに五分しか残されていなかった。

「ぐわあああああなんでもうちょっと早く起こしてくれないんだ」

「妹に起こされるなんて恥ずかしいこと嫌がるかと思って」

「でも結局起こしてくれたんだな優しい妹よ!」

「えっへん」

 どうせ起こしてくれるなら、昨日より早い時間にしてくれ。

「お兄ちゃん、朝食まだーあ?」

「昨日と同じ手には乗らねえよ!」

 超高速で着替える。

「そういえば、お兄ちゃん、あのゲームまだ借りてても大丈夫?」

 この忙しいときにどうでもいい話題だな。

「まだ満足してないのかよ」

「別の方法で攻略すると、もっとエロいアニメが見られるらしいんだよね」

「特に期限はねえから、好きなだけやってくれ」

「わーい、ありがと。お友達によろしく言っといて」

「愛する妹が変態だなんて知られたくねえよ」

 俺は髪をとかす。ああ食べる時間がなさそうだ。

「あれ、お兄ちゃん、靴下の色合ってないよ」

「え? どっちも白だろ」

「ええっ、違うよ。まあ確かに白なんだけどさ、よくよく見たら右はオフホワイトで、左は淡ーいキナリっぽいよ」麻柚は俺のスラックスをつまみ上げ、靴下のブランドロゴの刺繍を示した。「ほら、こっちはアジダスで、こっちはナマイキじゃん」

「あ、ホントだ」

「んもーお兄ちゃん、慌てすぎ」

 妹は俺のタンスの引き出しを開けて靴下をかき回し、「とりあえず今日はこれ履いていきなよ」と俺に一足渡した。「履いてるやつ、どっちも相方が見つからないから」

「お、おう……ありがと」

「あー、お兄ちゃん食べる時間ないね」

 起こす前にパンを焼いておいてくれたら食べられたかもしれないんだが。いやいや、そんなことは望むまい。俺が寝坊するのが悪いんだ。

 

 危機。

 手の中の百円玉と五十円玉と十円玉を見て、俺は校内の売店に向かう足を止めた。

 昼休み。自分は今から、昨日と同じ百六十円の惣菜パンを買おうとしている。財布の中は千五百三十三円。

 俺は数学どころか算数も苦手で、暗算できない人間ではあるのだが、それでも、この危機をどこか他人事のように感じていたのはどうかしていたとしか言いようがない。

 ああ、他人のせいにしたくもなるさ。異次元大好き野郎と変態の妹に精神をかき乱されていたのは言うまでもない。ああ、そうさあいつらのせいさ。

 しかし誰のせいにしようと危機は危機でしかなかった。電話しても出てくれない両親がいつ九州から帰ってきてくれるのか、一週間どころか数ヶ月単位の話になるのか、見当がつかないので余計にどうしたらいいのかわからない。

 とりあえずバイトだ。近所の居酒屋あたりで。

<どうして夜の蝶はダメで飲み屋はオッケーなのよぉ!>

 麻柚の声が頭に響く。いや、中学生の水商売と高校生のバイトは全然違うぞ、麻柚。

 あと気軽にバイトできそうな店といえば、昨日のファミレスくらいか。でも昨日の様子じゃ閑古鳥を二羽くらい飼ってる感じだったな。

 しかし絶対に、そう絶対に、瑠果のバイトだけは手伝わない。手伝わないぞ。

 収入がいい、というのが気になるが、そんな危なそうな仕事ができるわけない。ないのだ。ない。

 

 百六十円を使わぬまま、俺は教室に戻った。

 節約したのではない。とぼとぼ考え事をしながら歩いているうちに、売店の食料がすべて売り切れたのだ。

 教室の窓際、自分の席へ戻る。みんながパンや弁当を食べる中、俺はぼーっとしているしかない。

 切ない気分になる。朝食も食べてないのに。ふらふらだ。何も食べずに自分の席にいるのも居心地が悪いので、俺は図書室かどこかへ逃れようと再び立ち上がった。瑠果が『幽体離脱を解明する』という文庫を机に出すのが見えた。

 

 図書室。

 ここは静かで落ち着くから好きだ。人も少ないし。

 入り口から遠い、奥のほうの席に着いた。本など選ばない。俺は読書が好きなのではない。むしろ活字は眠くなるので苦手だ。図書室という、この空間が好きなだけだ。

 この奥の席は、俺の特等席と言ってもよかった。こんな奥まで入ってくる生徒はあまりいない。うちの高校の図書室は、蔵書数が高校にしては半端ないらしい。ということは図書室の広さも半端ない。更に読書スペースも惜しまず設けてある。この奥の席まで来ると、近くにある本棚はみんな「むつかしい本」なので、学習に使うわけもないし、好んで読む生徒もなかなかいない。だから邪魔なものも喧騒もなく、俺はいつもこの席で落ち着いた時間を過ごすことができた。

 図書室内の壁に、駅で見つけたのと同じ、黒っぽいピストルのポスターが貼ってあった。図書室の静かな雰囲気にそぐわないデザインだな。

 視線をずらし、何の気なしに「むつかしい本」の並ぶ本棚のほうに顔を向ける。そのとき、長い髪がなびくのを見た。うわ、と俺は顔をしかめた。

 紛れもなく、瑠果の後ろ姿だった。

 なんで俺の行く先々に現れるんだ。「むつかしい本」なんか読むのか? まあ優等生だしわからなくもないが、あいつが読むのは異次元の非科学的な本ばっかりじゃないのか?

 そのとき、腹がぎゅるぎゅるるるるるるると大きな音を奏で、入り口付近にいる人までもが俺のほうを見た。まずい、今日はここじゃダメかも。どこかうるさい場所に逃げなくては。いや、もう午後の授業サボろうかな。帰っちゃおうかな。

 これだけ大音量だったのに、瑠果はこちらを見なかった。でも見つかって話しかけられたりしたら嫌なので、俺はそっと図書室を後にした。ああ、落ち着ける場所がない。

 本気で午後サボろうかと考えながら教室に向かう。授業中に腹が鳴ったら、昼休みに食ったばかりだろうがとみんなに笑われるに違いない。食ってないのに。勝手な思い込みで人をバカにしやがって、何も知らないくせに笑うな。俺は想像上のクラスメートの反応に腹を立てた。

 教室の自分の席に戻り、ふと見ると、瑠果は『幽体離脱を解明する』を優雅に読んでいた。ここから見える文面によると、「多くの場合、この現象は意思に反して、あるいは無意識的に起こるものであり、これを意図的に行おうとするならば、相当な訓練が必要である。そして多大な体力消耗を伴う」のだそうだ。あほらしい。

 いや、

 ……いやいやいや、

 ちょっと待て。

 俺は図書室で瑠果を見たんだぞ。なんでここにいるんだ。

 今更ながら、俺はぎょっとして瑠果を見た。図書室で、この後ろ姿を見た。まさにこのままの後ろ姿だったのに。人違いだったのか?

 わけがわからず、腹が減っていることも早退しようかと思っていたことも忘れて、俺は昼休みも午後の授業中もずっと瑠果の姿を眺めていた。

 

 

3■火曜日のスペアレッド〈2〉へ続く

 

 

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