5■木曜日のアルバイト

 
〈2〉
 

「もっと早く走ってくれれば、二人きりになれたのにー」

 ゆるめちゃんが、可愛らしく唇を尖らせた。

 可愛らしいのだが、もう俺は可愛らしいなあと純粋に見とれることはできなくなっていた。それにしても可愛らしいのだが、俺は現実を受け止めなければならなかった。ゆるめちゃんが可愛らしいこと。ではなく。ゆるめちゃんが明らかに普通でないことをだ。それは判りきっていることなのだが、やっぱり可愛いので「許しちゃおっかな」と思ってしまいそうな自分が恐ろしい。

 南口を出て、ゆるめちゃんに引っ張られるまま走った。振り返る余裕もないが、ときどき「お兄ちゃん!」という声が聞こえ、麻柚たちも追いかけてきているとわかった。ああもう、麻柚と瑠果が一緒にいたら危ないのに、と思いながらも、ゆるめちゃんの怪力は度が過ぎていて、俺は男だというのに抵抗できなかった。ゆるめちゃんの筋肉は一体どうなっているのか。細くて折れそうな体をしているのだが。

 そして、とうとう、「ここだよん!」とゆるめちゃんが立ち止まり、さっきの「もっと早く走ってくれれば、二人きりになれたのにー」という台詞を放ったのだ。

 腕を引っ張られながら不自然な姿勢で走らされたせいでヘトヘトだった。気づけば、ビルとビルの間、幅二メートルほどの薄暗く狭い通路に入っていた。

 俺はくらくらしながら、ゆるめちゃんが指差すほうを、ようやく見上げてみる。

 錆びついた金属のドア。

 空気穴とか覗き穴みたいなものは一切ない。倒したらお好み焼きでも焼けそうな、無機質なただの鉄板に、ロッカーみたいな取っ手が内側に窪んでいる。

 出入り口には見えなかった。なんの看板も出ていないし。扉を開けたら、掃除用具か、電気のメーターが出てくるんじゃないかと思う。

「なんか、いかがわしい香りがするな」

「マヒロくん、鼻も利くの?」

 本気で尋ねてくるゆるめちゃんを俺は無視した。

 こんなところの壁にも、例のピストルのポスターが貼られている。

「お兄ちゃんっ」

 妹が追いつき、鞄をどさりと下ろしてへたり込んだ。息遣いが荒い。ソフトボールをやっていた妹ですらこんなに疲れているのだ。ゆるめちゃんの体力は計り知れない。

「ほいでは、入るよぉー」

 ゆるめちゃんがゆるーく言った。やはりこのドアの向こうへ行くのか。

 ゆるめちゃんの手によってドアが開かれる。蝶つがいの状態から、こちら側に開くのだと思って疑わなかったドアは、なんのためのフェイクなのか向こう側に開いた。

 ドアの幅しかないコンクリートの壁。暗くて狭いコンクリートの螺旋階段が、地下に続いていた。いかにも「裏」とか、「闇」とか、そういう類の雰囲気が漂う。

「は、入るって? ここへ?」

 立ち上がった麻柚も俺の後ろから覗き込み、うろたえている。そりゃそうだろう。俺も嫌だ。閉所恐怖症でなくとも、閉塞感に息詰まりそうだ。下へ行くほど空気が薄くなりそうな気がする。

 無理。

 こういうときは毅然とした態度をとるのが一番だ、と俺は思った。

「ゆるめちゃん、せっかく連れてきてくれて悪いけど、こういう怪しい……うおっ」

 ものすごい力で腕を引かれた。

 俺はゆるめちゃんと一緒にドアの中へ飛び込んでしまった。

「お兄ちゃん!」

 麻柚が俺の制服を引っ張ったが、すぐに「きゃっ」と悲鳴を上げて逆に俺の背中にのしかかった。

 背後でドアの閉まる音。階段は真っ暗になった。

 振り返ると、麻柚の両肩を、背後から瑠果が押さえていた。麻柚は怯えている。瑠果に表情はない。

「なんなんだよ、ここは!」

 牢獄にでも引き渡されそうで、怖くなってきた。

「無理! 無理だよ! 怪しすぎるから! 外に出る!」

「子どもがダダこねてるみたいね」瑠果が笑う。「大丈夫、マヒロくんはまだマシよ。マユちゃんのほうが怖いと思うわ」

 そりゃ、よく知らない奴らに変なところへ連れてこられたら、怖いだろうな。

 でも俺だって怖いわ!! なんなんだゆるめちゃんのこの怪力は!

「進むよぉー」

「離せよ! 引っ張るなよ! うわああああ」

「お兄ちゃん!」

 ゆるめちゃんが俺の手首をものすごい力で掴んでものすごい力で引っ張って階段を下りていく。

「離せってば!」

「男だしょっ!」ゆるめちゃんが高い声で怒鳴った。「もうちょい堂々としてたらどうなん!?」

 むぐ、と俺は一瞬たじろいだが、そんなの男女差別だ。男が怖がって何がいけないのだ。いや、そうじゃなくて。この拉致のような行為に従っていられるかってんだ。くそ、ゆるめちゃんは怒った顔も可愛い。

「ま、真っ暗だよう」

 麻柚が弱々しく言うのが聞こえた。

 ああ、そうだ、麻柚はトリメなんだ。ただでさえ不安な状況で、階段も見えないとなれば一層恐怖は増すだろう。俺より怖いはずだというのは、そのことか。

「慣れれば見えなくても上り下りできるようになるわよ」

 瑠果が冷たく言うが、見れば暗視スコープを使っているじゃないか。

「私も最初は手探りだったよん」

 ゆるめちゃんも言う。

 みんなトリメかよ!

「マヒロくんて本当に、鈍感よね」

「は!? なんで今そんなこと言われなきゃいけないんだ」

 唐突に馬鹿にされた。腹立つ。

 何十段下りただろうか。少しずつ明るくなり、視界がオレンジ色に染まってきて、やがて広い空間へ出た。広いと言っても五メートル四方ほどだったが、腕を広げることもできないほど壁が迫る階段を下りてきた身としては、少しほっとした。

 これまでのコンクリートとは違い、この空間の壁はレンガだった。明かりは松明で、部屋の四つ角の上部にひとつずつ設置されている。光が揺らぐ。

 階段を出て右手にカウンターのようなものがあり、三十代後半かと思われる男が一人座っていた。両肘をつき両手の指を組んで、こちらを見ている。顔立ちが整っていて、髪は銀色だった。腕や肩幅を見ると、かなりガッチリした体格。ラグビーとかやっていたのかな、と俺は勝手に思う。そんなことを考えている場合ではないのだが。

 低くて男らしい声が響いた。

「そいつがバイト志願か、ゆるぴー」

 ゆ、ゆるぴー?

「そうだす! カッコイイっしょ? いいっしょ?」

 ゆるめちゃんは飛び跳ねるようにして男に寄っていく。

「そうだな」にやり、と男は口を片端だけ持ち上げた。「今夜のお相手にいい感じだな」

 なんの話だ。

「あの!」

 俺は、変なことに巻き込まれるのは絶対に避けなければならない、と腹筋に力を入れて声を出した。聞き返されて「あ、いえ、なんでもないです」となってしまわないようにハキハキ喋って断ってさっさと帰るのだ。

「僕、ここでは働けません」

 男の肩眉が上がった。この人、怒ったら怖そうだな。しかしそんなことは構っていられない。

「せっかくお時間とって戴いて申し訳ないですが」

 俺が話している間に、男は立ち上がってこちらへ歩いてきた。で、デカい。縦にも横にも体がデカいぞ、この男。

「これで失礼しま」

「あああん!?」

「あ、いえ、なんでもないです……」

「お兄ちゃあん」

 んもう情けない、と言いたげに、妹が情けない声を出した。

 男は俺の顔をまじまじと見つめ、徐々に顔を近づけてきた。

「あの、ちょ……」

 逃げようとした瞬間、右手首を捕まえられ、顎を押さえられた。

 え!! ちょっと待ってくれ、何するんだ? 何するんだ!?

 嫌だ嫌だ嫌だ、男に唇を奪われるなんて!!

「離してください、はな、離せっ」

「少しおとなしくしてろ」

 俺は左手で、顎を押さえる男の腕をどうにかどかそうとしてみるが、到底敵わなかった。どんどん顔が近づいていくる。

 男の股間目がけて蹴りを入れてみた。びくともしなかった。逆に両足を踏まれ、自由を奪われた。

「うう……っ」

 怖い怖い怖い怖い。

 妹の前で男にキスされるのか、覚悟を決めなければならないのかと俺は脂汗をかいていた。

 しかし、五センチほどの距離を残し、男はそれ以上顔を近づけてこなくなった。

 どうやら、俺の目を見ているらしかった。

 目の、もっと奥のほうを見ているように感じた。目を見られているはずなのに、目が合っていない気がする。

「ほう」

 男は俺の顎を微妙に動かしながら、しばし観察を続けた。

「あの、な、なんなんですか」

「少しおとなしくしてろ」

 同じ台詞をさっきも言われた。

「いきなりこんなことされても、わけわかんないんですけど」

「少しおとなしくしてろ」

 三度目!

 とりあえず、接吻でないならいいや。抵抗しても体力が無駄に消耗するだけなので俺は力を抜いた。それがわかったのか、男は俺の右腕を解放して、瞬きできないように俺の右目の上下を押さえた。

「う、あ、目が乾いて痛いんですけど」

「少しおとなしくしてろ」

 四度目!!

 俺の意思は無視かよ。

「ルカさん、あれ、何してるの?」

 麻柚が小声で訊いている。瑠果も小声で答える。

「今夜の相手に相応しいか判断してるのよ」

「ええ! ちょ、なんだよそれ、今夜ってなんだよ、俺どうなるんだよ!」

「冗談よ」

「少しおとなしくしてろ」

「うぐっ」

 顎を押さえる力が強くなった。顎はずれちゃうよう!

「これは……」

 男がぼそっと言った。

 なんだ。なんなんだ。

「これは、ダメだな」

 しん、とした。

 松明がボッボッと音を立てるのが聞こえる。

 だめって。

 今夜の相手に相応しくない、と判断されたのか? だとしたら俺にとっては万々歳なのだが、なんだか役立たずの不良品扱いされたようで、あまり気持ちよくなかった。

「……え! え!」声を上げたのはゆるめちゃんだった。「ダメなの? マヒロくん、ダメなの? なして?」

 俺も訊きたい。

 男は、用なしだ、と言わんばかりに、俺の顎を投げ捨てるように離した。

「うえっ」

 首がおかしくなった。

「ゆるぴー、こいつは確かにレアだが、使いものにならねえな。欠陥品だ」

 男は首の後ろに手をやって、はあーっと溜め息をついた。

「だからー、なして? 何が?」

「ダメなんだよ。話にならねえ」

「だからー、理由を教えてよお」

「惜しいんだけどな、使えねえ」

「だからー」

 この男、もしかして、バカなのか。会話が成り立たない。

「異常なのよ」

 見かねたのか、瑠果が答えた。

 異常って。

「い、異常なまでに優れた能力持ちってことっしょ!? ほら、マヒロくん、やっぱすごいんだしょー」

「違うわ」はしゃぐゆるめちゃんに、瑠果はぴしゃりと言い放つ。「異常持ちなのよ」

「ほへ?」

 ゆるめちゃんは、そんなに曲がるのかと感心するほど首を傾げた。

 無意識に俺も傾げていた。

 麻柚まで同じ角度に傾げている。

「うむ。青錐体系に」男は自分のこめかみを指差した。「異常が見られる」

 ……え、俺の目が? 異常?

 今まで生きてきて、そんな診断を受けたことは一度もない。第一、目で観察してそんなことがわかるもんか。出任せで適当なことを言ってるんだろ。てか錐体ってなんだっけ。

 とりあえず、俺が男にとって使いものにならないとなれば、こちらにも好都合だ。俺は背筋を伸ばし、礼儀正しくお辞儀した。

「お役に立てなくて残念です。では、僕たちはこれで。マユ、帰るぞ」

「ああ、待て」男が手を挙げる。「そっちのチェックがまだだ」

「え」

 見れば、男が麻柚を指差していた。俺の妹を指差すなよ。

 麻柚は慌てて引きつった笑みを浮かべ、両手のひらを見せて拒否のポーズをとった。

「あ、あたしはここでバイトする気ないんで」

「そっちの意思は関係ねえ」

 ずんずんと男が麻柚に寄っていくので、俺は全速力で間に入る。

「俺ら、帰りますんで!」

「邪魔だ。少しおとなしくしてろ」

「ぶへっ」

 気づいたら俺は床に倒れていた。って気づいてから頬と口内に痛みが広がる。

「お兄ちゃん!」

 殴られたのか払われたのかよくわからなかったが、とにかく暴力を受けた。父さんにもぶたれたことないのに。

「やめてよう! 離してよ! セクハラで訴えますよっ」

 両腕を掴まれた麻柚が、懸命に男から逃れようとしている。助けなきゃ。

「マヒロくん」

 立ち上がろうとした俺の耳元に、ゆるめちゃんの甘いささやき。

「欠陥があったって、マヒロくんは私のものだからね……」

 もしもシチュエーションがよかったら、俺はゆるめちゃんにメロメロになっていただろうな、と思う。耳に当たる柔らかな吐息に全く似合わぬ怪力で、ゆるめちゃんは床に座った状態の俺を背後から抱きしめた。というか羽交い絞めにした。

「やめろ! 何すんだよ! 何がしたいんだよ!! マユを離せ! 俺も離せ!」

「少しおとなしくしてろ」男は麻柚の両手首を片手で掴み、もう片方の手で麻柚の顎を押さえて観察しながら、俺に向けてぼそりと言う。「不良品ほどぎゃあぴい騒ぐんだよな」

 不愉快極まりない。さっきからなんなんだ、欠陥だの不良だの異常だの。

「お?」

 男が、何か期待のこもった声を上げた。

 今にもキスしそうなほど顔を近づけやがって。事故であろうと唇がぶつかれば殺すぞ。

「これは珍しいな。使える」

「なぬ!!」

 俺の耳元でゆるめちゃんが絶叫した。耳がきいいいいんとした。

「なんですとおおおお!!」

 あああ、耳が。

「マヒロくんだって珍しいでっしゃろ!? なーんでー!!」

 ああああ耳がああ。

「この娘はレアだな。レベルで言えばルカのアクガレくらいにレアだ」

 男は麻柚の目をさらに覗き込む。

「ほんとに、やめてくださいっ」

 妹はもがくが、ほとんど無意味だった。

「ちょっと!! マヒロくんは何がダメなのおおお!!」

 あああああ耳があああああ!

「うるさいわね」

 呆れたように瑠果が溜め息をついた。

「ちょっと調べれば判ることよ。確かに、マヒロくんの目は特別。でも障害があってはプラマイゼロ」

「待ってくれ、障害って、なんだよ」

 俺の目がなんだっていうんだ。これまで不便を感じたことなんかないぞ。特別でもない。俺は至って普通の高校生だ。なんの話をしてるんだ。

「本人すら気づいてないみたいだけど」瑠果の口調は相変わらず冷たい。「マヒロくんは、色覚異常よ」

 ……え?

「ええええ!!」

 ああもう耳があああ!

「マヒロくん、色見えないのおお!!」

「見えるよ!! お前うるせえよ!!」

 は、と、ゆるめちゃんが息を呑むのがわかった。

「ご……ごめむ……」

 非常に可愛らしい声で謝罪されたが俺はもうなびかない。とりあえず今、会話するべき相手は瑠果だった。

「おい、ルカ。遺伝の勉強で赤緑色覚異常は習ったけどな、俺は赤いトマトと緑のトマトを見分けられるぞ。紅葉だってわかる」

「そう。それはよかったわね」

「バカにしてんのか」

「してないわ。あなたがバカなだけよ」

「……!」

 腹立つ。腹立つ腹立つ。

 瑠果は完全に勝ち誇った顔で俺を見下ろした。

「マヒロくんは、私が飲んだブルーベリージュースを黒いと言ったわ。あれは、極端な表現をしただけなの? それとも、本当に真っ黒に見えたの?」

「真っ黒だったろ。濃いジュースだったんだろ」

「あれは青紫だったわよ」

「は?」

「確かに色は濃かった。暗い色だったと思うわ。でもあれは黒じゃない」

「嘘だ」

「私が食べたレアチーズケーキも、何の味か予想できなかったわよね」

「チーズケーキはチーズケーキだろ」

「あのレストランのレアチーズケーキはね、レモン色をしてるのよ。チーズケーキみたいなチーズの色じゃなくて、着色料だろうな、っていうキレイなレモン色なの。それがわかったら、レモン味とか、ひねくれたってパイナップルとかマンゴーとか、黄色っぽい果物の名前を挙げるはずなのに」

「嘘だ。白かったよ」

「レモン色よ。そしてレモン味よ」

「嘘だ!」

「青いパックの牛乳と、緑のパックの低脂肪乳。『ほとんど同じ色』と言ったわよね」

「え?」

「低脂肪乳のパッケージは緑だったわよ」

「嘘だ」

「そうね、まあ、厳密に言えば青緑かしら」

「そんなに違いはなかった」

「異常のない人には区別がつくのよ」

 異常のない人には。

 その言葉にどきりとする。ハッタリなのか? それとも本当に、俺がおかしいのか?

 今まで、普通に生活してきた。自分が異常だなんて感じたことは一度もなかった。

 一度も?

 本当に?

<あれ、お兄ちゃん、靴下の色合ってないよ>

 数日前の妹の言葉が頭に響く。

「まあ、仕方ないといえば仕方ないわ」

 瑠果は腕を組んだ。

「青黄色覚異常は、ほとんど障害を感じないの。成人しても自分で気づかないで生活している人も多いらしいわ。多いといっても、先天性の青黄色覚異常って本当にごく稀なんだけど」

 青黄色覚異常。

 なんだそれ。

「後天性だとしたら、いくらバカでも視界の違いに気づくはずだから、マヒロくんは先天性だろうと思うんだけど」

 瑠果がいきなり近づいてきてしゃがみ込み、男のしているように俺の目を覗き込んだ。

「青錐体って、普通の人でも赤や緑より少ないらしいのよ。だから、生活にあまり支障はない。だから本人も気づかない」

「気づかないのが普通なら、俺をバカ呼ばわりしたのは言い過ぎじゃないのか」

 虚勢を張って言ってみたものの、言われていることをにわかには信じられない。俺が異常? わからない。自分の見ている景色は、他の人とは違うっていうのか。普通だと思っていたものが、普通じゃないっていうのか。

「マヒロくんは確かに希少だけど、それが障害では、ね」

 瑠果が微笑んだ。哀れむのでも馬鹿にするのでもなく、ただ微笑んだ。俺を元気づけようとしているわけはないから、人の不幸が楽しいのか。

「で、でも!!」

 う、耳が。

「マヒロくんは、目がぶっ飛ぶくらいにいいんですのよ!!」

「御幣があるから語順に気をつけてね、ゆるめちゃん」

「ばーか。目がぶっ飛ぶわけないっしょ。びっくらこくほど目がいいんだす。ルカちゃんだって知っとるであろうに」

「ええ、知ってるわ。視力は四から五くらいあるわね」

 ヨンカラゴって、なんだ?

「あらマヒロくんてそこまでおバカさんなの? そうね、今時は学校じゃABCDの四段階で視力を表すから、マヒロくんの測定結果はAでしかないのよね。日本人離れした視力の持ち主だとは、一般的な視力検査ではわからな」

「お兄ちゃん!!」

「うわあっ」

 唐突にも程があるだろうに、非常に唐突に麻柚が俺に飛びかかってきた。

 いや、多分抱きついてくれたんだと思うが、もうお互い必死で何が何やらわからない。瑠果の話に注意を向けていて、男が麻柚を離したのか、麻柚が自力で逃げたのか、見ていなかった。俺としたことが妹のことを見ていなかったなんて。それにしても突然すぎて心臓が一瞬止まった。

「怖かったよおおおなんであたしがこんな目に遭うのよおおお」

 ぎゅううう、と麻柚が俺の首にしがみつき、俺の首が絞まる。苦しい。

「そうか、けほっ、よしよし……と頭を撫でてやりたいところなんだが……うぐぐ」

 麻柚、俺の首が絞まっているぞ。ゆるめちゃんは未だに俺を羽交い絞めにしているし。

「仲がいいのね」

 瑠果はまだ柔らかく微笑んでいる。

 ふと見ると、銀髪の男はカウンターに座り、ペンを持って何か書いていた。麻柚の特殊な能力について、バレてしまったのだろうか。

「マユちゃん、お兄さんの視力について何か気づいていること、ある?」

 瑠果が尋ねる。

「へ? 視力?」

 麻柚は俺から離れ、きょとんとして首を傾げた。首の傾げ方が可愛い。妹は世界一可愛い女の子かもしれない。

「気持ち悪い、って感じてはいたけど」

 気持ち悪いって。

 世界一可愛い妹は平気で俺を気持ち悪いと言った。落ち込む。

「ていうか、あたしも昨日か一昨日くらいに気づいたんです。お兄ちゃんは目がいいんじゃないかって。それまでは冗談かと思ってたから」

「わかるわ」

 瑠果はうんうんと頷く。

「四、五メートル離れたところから、新聞の番組欄の文字を読んだり」

「うんうん」

 え、みんなは読めないのかよ?

「それから……、そう、その日、お兄ちゃん、駅を出たところで、薬局の角を曲がるあたしが見えたって電話してきたんですけど。駅から薬局って、歩いたら二十五分とか三十分とか、そのくらいかかるのに。そんな離れたところから、意識的に捜して光ったんならともかく、目で見えたなんて……」

「マユ!」

 だめだ、光って見える話をしちゃ!

「それは恐ろしい視力ね」

 瑠果は微笑んで言った。光の話はスルー。よかった。

「だしょ!!」

 うあああほんっとにやめてくれ耳が壊れる。

「目がいいってだけでも充分勝負できますだしょ!!」

 ゆるめちゃんの声はデカいが本当に可愛い。もっと違う形で出会いたかった。いや、ゆるめちゃんがもっとまともな人間だったらよかった。

「それでも、障害があれば判断が遅れる。死ぬわよ」

 瑠果が冷たく言う。死ぬってなんだよ。

 頼むからそろそろ全貌を教えてくれ。

「マヒロくんはそれだけじゃなかとよ! マヒロくんの世界はいつでも明るいのだす」

 ゆるめちゃんはまだ諦めない。意味不明のことを言った。

「ええ、知ってるわ」瑠果がそれを肯定した。「やっぱりマヒロくんには自覚がないのだけどね」

「ルカさん、なんの話?」

 こればかりは妹にもわからないらしい。

「あら、マユちゃんも気づいてない? お兄さん、あなたのこと鳥目って言ってバカにしてたでしょう」

「バカになんかしてねえよ!」

「あ、はい。バカにされてました」

「おい!」

「お兄さんはね、暗いところでも目が見えるのよ」

 瑠果は柔らかな微笑みを絶やさない。

「え?」「え?」

 俺も麻柚も聞き返した。

 まるで、暗いところで目が見えるのがおかしいかのような言い方じゃないか。

 麻柚が俺の顔を見た。

「どういうこと?」

 真剣に訊いてくる。いや、俺にもわからん。

「お兄さんは、当たり前のことだと思ってるから、何を言われてるのか理解できてないと思うわ」

 いやいや、お前がおかしいんだって。

「マヒロくん、きっとあなた、懐中電灯は色を見るための道具だと思ってるでしょう」

「は?」俺は思わず眉をひそめた。「他にどういう使い道が……」

 俺がそう答えると、妹が「えっ」と反応した。俺はそれを見て「えっ」と反応する。

「色を見なかったら、じゃあ何を見るんだよ」

「ちょっと待って意味がわかんないよお兄ちゃん、色を見るってどういうこと?」

「どういうことって、何が?」

 やばい、麻柚も瑠果側につくようだ。

 混乱している俺の顔がそんなにおかしいのか、瑠果はニヤニヤと嬉しそうだ。

「マヒロくんにとって真っ暗闇は、少し薄暗いモノクロの世界なのよ」

 俺にとって?

 なんなんだ。なんなんだなんなんだ。一体どういうことなんだ。ドッキリか? ドッキリなのか? 気持ち悪い。俺、馬鹿にされているんじゃないか?

 麻柚は俺の顔を真剣に見つめた。

「ほんとなの?」

 そんなに真面目な顔は久しぶりに見たぞ。いや、気味悪がっているようにも見える。

「俺が変なのか? みんなは暗いと何も見えないのか? それが普通なのか?」

 俺の問いには答えず、びっくりした顔のまま、麻柚はゆっくり立ち上がった。ずっと肩にかけていたスクールバッグの中をごそごそし始める。

「……じゃあ、お兄ちゃん」

麻柚が何かを手にした。

「これでも大丈夫ね?」

 言い終えた途端、麻柚は動いた。

 俺は一度見ていたから、それがあのピストルだとわかった。麻柚の動きが素早すぎて、瑠果やゆるめちゃんに見えたかどうかわからない。

 麻柚は瑠果とゆるめちゃん、それから銀髪の男の顔面を撃った。そしてまた瞬時に部屋の四隅を撃った。

 真っ暗になる。松明の火が消えたのだ。

 俺は見た。銃口から飛び出したのは……、水だった。

(水鉄砲かよ!!)

 まさか玩具だったとは。

 しかし瑠果がなぜか呻いている。

「ごめんね、ルカさん」麻柚が悲しそうに言った。「それ、塩酸だよ」

「――!」

 声にならない瑠果の叫びが聞こえた。

「ちょ、マユ、それはまずいだろ」

「お兄ちゃん、とにかく今は逃げよう」

「いや、まずいって」

「いいからいいから、階段に連れてって」

「いいからって、お前……いいわけないだろ」

 塩酸はまずすぎるだろ、と俺はちょっと戸惑ったが、悩んでももう遅い。救急車を呼ぶにしても一旦ここを出たほうがいいのかもしれない。ここにいても塩酸をかけられた人の処置なんてわからないし。

 俺は麻柚の手を握って、階段へと走った。

 

5■木曜日のアルバイト〈3〉へ続く

 

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